昭和43年5月20日 夜の御理解 ●② 大坪かよこ
最近、特に有難いと私が思うことは、非常に難しい、まあ、いうなら、高度のみ教えを、たとえば月次祭のような一般の方たちに聞いてもらえれるようになったということである。これはそれだけ合楽の信心が高度なものになっていきよるという印でもあると私は思う。
あとで考えてみて、ほんとに深遠さというか広大さというか、ひろさというか、それをまあ、もちろんそれはできるだけの表現、私の表現力を持って、たわない表現力をもって、まあ、いうなら噛んで含めるように説いて下さってはあるけれども、そりゃもう大変難しいことだなーと私は思うんです。
けどもやはり、段々信心のおそだてを頂き、成長のおかげを願うならばどうしても、難しいというか、どの御教えも頂きこなせれ、そしてそれが、生活の上にもそれだけ深さを増し、広さを増していくようなおかげになってこなければいけない。
そういう意味で私は有難いと思う。この頃あの、二、三日前の月次祭の朝だったかしら、あの、ボーイフレンド、ガールフレンドなんかの例を持ってからの御理解なんかも、実にま、意味が慎重な御理解でしたから、、佐田さんの奥さんが頂いておられますように、大変な高度なお話を、しかもそれをどうかして分ってくれというその神様の願いが、ああいう表現力を持って教えて下さってあるんだというようなお知らせを頂いておられる。
これは果たしてお互いがその、分っていきよらんでもいいですけれども、やはりある程度はそこんところを本気で分かっていきよらなきゃ、ね、そしてその真意というものを、自分のものにしていかなければ、ただ話だけは、私の話が、別にあの難しいま、言葉を使っておるわけじゃないのですから、一般の言葉を使っておるのですから、けれどもその、その真意というものは、非常に深い、だから一言なら一言でも、これはどういう意味なのかということになってくると、も、それだけでまた、一つのお話になると思うくらいあるのです。
で、どうしてもそこんところをやはり、あの耕していくというかね、掘り深めていくという態度がま、望まれるわけでございますけれども、ま、最近しきりに言われておることは、合楽的な信心から、金光教的信心への過度期にある。それはたとえばあの、隅田たけひこ先生をあの、お招きしてから、頂いたあの話、時分に頂いておった還元といったような、あの時分から、その合楽的信心の脱皮と、それから金光教的、本当の意味での金光様のご信心というものになっていかなければならないということはね、合楽の信心を改めていくというのじゃない、それに一段とほんとのものを加えていくということなんだ。
ですからどこまでもその、深さを持って、説明するなら、やはり合楽的信心でなかにゃできない。
ね、広さを持っていくことには、やはりいまの、今のじゃない、金光教的いわば、信心。金光教的、現代の金光教の信心を、ま、金光教的と言うだろう、言うていいだろうね。
ほんとの金光教の信心という、ほんとに神髄に触れたといったようなところを、打ち出してないような感じがする。
そういうとこの、合楽的信心と、金光教的、ま、現代の金光教的信心とが、二つがこう一つになる時、いよいよ深さと広さを増していくような気がするのです。
これは、たとえばいかに信心が浅くても、それが広く、今ここであの総代さん方が、ご造営始まってこの方、と、今毎朝、ほとんどの総代さん方が、全員揃うて、お届があります。
ね、信徒会でお届致しますその後に総代たちみんなここへ出てきてから、その日一日の信者一同のこと、また、その時、その日の特別なことやら、または会合の事やらを逐一お届けをされます。
いわゆる金光教、言うなら合楽教会全般にわたっての、お取次ぎを、総代たちが願われるわけですけれども、さあ、それをその一人一人の真意というたらほんとにどのくらい、ま、今日のことを言うておるかというたら疑問である。
深さにおいては、けども広さにおいてはです、やはり素晴らしいなーとこう思うのです。ね、今日もあの、高芝さんが、今日朝のご祈念に出てこれなかった。
ほいで今日、その後に出て見えてから、もう最近おかげを受けておるということをですね、もうほんとにま、まあ、どっちかというなら、あっちもあまり仕事を好かんほうですけれども、ま、私のような者に、私のような現在の仕事がですね、もう、ほんとに打ってつけの仕事をこうやって下さったということは、もうただ、なにかこう、ま、ほんとに狐につままれたような感じだというわけですね。
ま、そうは言われんけれども、まあ、それを強いてそう表現するなら、ね。その勤めの時間はま、普通の会社と変わらんのだけれども、結局あちらの社長さん、ま、代理のようなことで、先生、ほんとに勿体ない話だけど、毎日、もう行ってからごろ、もうぶらぶらしとるだけでございます。もうそれぞれの専門専門のそのちゃんと、技術は技術、事務は事務あるんです。ですからその、社長さんが出なければならない相手の話やら、目を通さなければならないようなことに目を通したりするぐらいで、自分の仕事がないから、その気の毒に思うてその社長さんに言うたら、いいや高芝さん、あなたがそれでおって頂いてそれでいいんです、て。だからもう、そこんところだけをちゃっとこうま、顔利かせておって頂きゃいい、というふうに言われてるんですけれど、ほんとに勿体ない。
高々と給料もろうて、そして別に大したお仕事もなくて、ね、ですから、結局工場全体のこと、また社長さんたちをはじめ、工場全体のことについて、やはり祈らなければ、願わなければ結局、あの、かめお綿のご祈念係という感じだとこういう。
ね、今日、夕方から、宮崎二泊かですか、で、今度旅行を致しますそうです。
で、その、行員の方たちから、社員の方たちの全部お届がありましてね。特に乗り物に弱いという何名かの人の名前を書いてそしてその、車酔いをする、その方達を特にお願いして御神米を頂いて、まあ、帰られるわけなんですけれども、なら、高芝さんの信心が、果たしてそのかめお綿のそこのことについて、どれほど深いものに、というてくるとこれは疑問である。限りがない、ほんとに今まで、合楽的な信心といったようなものがですね、ほんとに、あのもう、たとえば、申してまいりましてですね、実感のないことを願ったって駄目だと、いかに全教一新全教一家と大きなことばかり願ったって、世界真の平和を願ったって、その真意がなかったらそりゃ、神様に嘘を言うようなもんだと、だから、まず自分が助かる、自分の真剣に願わなければおられないことを願えというのが合楽的信心であった。そんためにはやはり自分自身というものが、ぎりぎり掘り下げられていくわけである。
ですからそういう意味合いにおいての、その自分の周囲のことを願うというようなことはできないにしましても、浅いながらもね、浅いながらも、いわゆる広範囲にこう、祈えれる、祈る稽古を一生懸命しておるということにおいてですね、やはり、いわばおかげになってくるんですね。
だから、この合楽的信心を抜きにして、このただ社会国家のことを祈っただけでは、こりゃつまらん。けども合楽の信心をひりとつの基盤として、基礎として、そしてその現在言われておるところの自分のために、磨くとか改まるとか、ね、たとえば天地書付を自分のために、自分のものにするというのではなくてです、ね、自他ともに助かることのために、天地書付が生き生きとしてくるというような、ことになってこなければならん。
だから、焦点をちょっと変えるだけだと。いうふうにしてそのことをしきりにね、周囲のことを願い、ね、それがいうなら、大海のような信心であり、自分だけのことをどんな尊い、どんな素晴らしい信心が出来、祈りができておってもです、ただ自分のこと、自分の一家のことのためであったらば、それはやはり竹の筒に水がわくような信心であるから、ね、竹の筒に水が入っておる信心であるから、ぼうふらぐらいの程度のおかげにしかならんのだと、言うことをこう言われるわけなんですね。
そのことを私はほんとに、有難いと、ね、そういうふうにたとえば深いもの、現在の、今までの合楽で信心させて頂いた、いよいよ自分を深めていくということにおいての信心がだいたい、お互い分かってきたから、ここに今度はその、ま、広さの点において、こう下さっておる。その広さが、いよいよ深さを深めてくるときにです、先日の月次祭の御理解じゃないですけれども、神様は限りなく下さるところの、一つ谷川なら谷川の流れというもの、ね、それをたとえばいうなら小さい包みのような程度で受けるか、ね、泉のような大きなもので受けるか、結局ここで包みが広ければ広いだけ、お恵みの水は頂けるのであり、深ければ深いだけ、お恵みの水はたくさん頂けるのであるから、どうでもこの受けものを大きくしなければいけないというわけをこの頃頂いたですね。
ね、で、それがまたこう、下の谷川の方へこう流れていくという、だからどうしてもその広く深くしなければならないという意味合いにおいても、今のできるできない、実感がある無いは別にしてです、現在言っておる、ここで言うておる、その御理解を本気でその気にならせてもろうて、自分のことよりも人のこと、ね、みなのことよりも町のこと、町のことよりも天下国家のことに至るまでを、やはりこの、祈れれるじゃなくて、祈る稽古を本気でしなければならないということ。
それに今までの合楽の信心の深さというのをプラスして、初めてこう横縦のプラスということになるかね。
私がそのさっき申しますように、ほんとに最近はとてもとてもほんとにやっぱり他所からぽかっと来た人たちでいまの合楽の御理解は頂きこなせないだろう、難しいのだ、どんなにわかりやすく説いても難しい、分らんだろう。
ね、第一焦点が違うから、難しい、とその私は難しいことをみんなに聞いてもらえれるようになった、ということが有り難いと申しましたが、そういう私はあの信心をですね、本当なことと、私はこれが本当ち信じ、感じられることをですね、一人一人にそれを伝えられるようになったら、もっと素晴らしいことになるだろうなー、と私は思う。
●② 今朝方から私はあのお夢を頂きよった。
何かあのむつやのあの、亡くなられた石井清子さんですね、清子さん、何か一生懸命懇談してる。内容は分らなかった。一生懸命何か話し合いをしておる。まあ、込み入った話のようである。何の話か分らん。そこへあのちょうど信司さんが、お参りさして頂いた。
それで信司さんに、そのお母さんといま話したことの内容を、信司さんに話しておるようである。その内容はこうなん。この信司さん、今度お宅祭りをさせて頂くなら、あの、ほんともう、あの、もうついっぱいのお祭りつかえにゃいかんばい、て言よる。
もうこんくらいで良かろうという思いどんしなさんな。というて借金してせろとは言わん。けどもいっーぱいの、あの、お宅祭りをさせてもらやにゃいかんばい、今年一年のお礼じゃなかばい、今度あんたげん、もう信心始ってこの方からのお礼ば申し上げんならんばい、ちゅうてその、信司さんにいよると、信司さんはそれを、はいはい、ちゅうてもうそれを本当にそうしますというようなふうして頂きよるんです。
ね、これは私の本当だと思うておることを、そのまま言うてる。
ところがそれぞれの信心の程度の応じて、ま、真心込めてさえすればよかがの、ま、そげんばさらか御直会やらなんやら、はらんで、も、神様の前だけ、真心込めてせんの、という程度にしか言えないほ人ばっかりなんです。普通は、ね、しかしそれは本当のことじゃない、その信心に応じて言うておるだけのこと。
そんなお知らせを頂いておりましたから、ほんとに有難い、現在、大変信司さんの信心も進んできて、御用も全然昔と違った態度で、おかげを受けておる。ほんとにあのやはり親の信心というものが、訳は分らんなりでも、どのような大変な難儀な問題が起こってきてもです、お母さんたちがああいう時には、こうしておった、ああしておったのをちゃんと見たり聞いたりしておるということに、私は驚きます。
ね、もうそんときにです、腹がき決まる。親の徳というものは、親の信心というものは有難いものだなというふうに、信司さんを通して私は思うんですけれども、そのことをですね、信司さんにも私は直にそれが伝えられるようになったら、素晴らしか。
今日はあの若先生が、西原教会の大祭で、あの人が当番で、若先生のお供して参りました。松栄会の方たちが交代で御用させてもらうんですね。で、ちょうど時間に今日やって参りましたから、は、今日頂いたことをこの人話そうかなー、と思ったけどね、今日、あんた御用頂かせてもらうならね、もうこりゃすばらしい還元ばい、もう、忙しいかてんまんてん思いどんしなさんな、もう、ほんとにこうやって御用に使うて頂くとが有り難いばい、というて、今日私お夢頂いたことを伝えようかと思うけれども、まーだ、それを伝えられる、どうもぴんと跳ね返、少しどん跳ね返ってきらせんじゃろうかというま、ものがあった。
夢ん中で私が言うたように、ほんとにこやって御用さして頂くということが、有難いことばい、当番じゃけん、しょうのなかことぐらいであっちゃならんよ、もうこれは本当に有難いと分って思って御用させてもらわにゃいけんよ、というように、宅祭りの例をもって、私があの、たとえば信司さんに言われるようになったときに、信司さんがおかげ頂く時であろうと私はこう思うんです。
ね、たとえば、ならさあ、菊栄会のみなさんがです、今日は菊栄会ですから、菊栄会全体を前にしとる時は私はたいてい、ほんとのことが言えれる。けどもさ、一人一人になると、文男さんあんたがたは、とても年に一辺の謝恩祭ぐらい、あんたげだけで、いっちょ、本気で仕えにゃいかんよ、まーだ言いきらんです。
高橋さん、あんた方、いつまでん、天地書付どん拝むようなことでどうするね、あんたがたの部屋、あんたの一部屋一部屋を、もう神様の間にしてしもうて、ね、堂々と神様をお祭りして、桧の香のぷんぷんするような御八足どん置いて、ね、月に一辺ぐらいの謝恩祭ぐらいさしてもらわんやいけんよ、と、まいうなら、その、そりゃ、文男さん、さ、高橋さんと、もうほんとに、どんなことでもいうても、怪我をせんであろうという人にですら、まだ私は言えんです。
それを、ね、私が願うところはです、本当にこうすることが本当だと思うことをです、ね、ほんとにそのものずばりに、こうしたらおかげを頂けれるよ、こういう考え方にならなにゃいけんよと言えれるところまで、私はおかげを頂きたいと。こりゃ私も思うが、これには皆の信心が、それでけ進まなきゃ言われん。
ね、最近有難いと思うことは、ね、どういう難しいお話でも、もう大体において、頂きこなされる人たち、たとえば月次祭にですら、難しい話ができれるようになったということが有り難い、と私は思うておる。こういう高度な信心を、話せるということは、それでけもうみんなが高度な信心におかげを頂いていきよる証拠だからと思う。
ね、ですから、それを私がです、もっと、もっと、本当のことをいわゆる個人教導する場合、本当なことをです、ね、こうすることが、こうがおかげ頂くばいということを、本当に言えれる私と皆さんになっていくね、ところまでにはまだまだ程遠いという感じが致しますけれども、ね、いよいよ私はおかげ頂かしてもろうて、私が本当と確信するところ、みんなはまだそれを本当と思いきらんでも、先生が仰りよるげなとというところでも、ね、けれども私が言うことを分からんけれどもそれについて行こうとする意欲を見せてくるようにです、みんながなった時に、少しは無理でも、それが言えれるようなおかげになってくるんじゃなかろうかて言うふうに思う。
どうぞひとつ、なら、これは私の信心が現在本当ということではない、もっともっと本当に進んでいくだろう。
だから、ね、現在私がほんとと思うとることを、皆さんも早くマスターしてもらわないと、また、私上の方へ登って行かれない。そんな感じがする。ね、どうぞ一つ本気でね、最近頂いておる御理解の神縁のところ、ね、広大なところ、そういうところに、ほんとにこの、触れていくことが有り難いという信心にね、なっていかなきゃいけんと思うです。どうぞ。